こんにちは
今回は、武田家に所縁のある名所を二日(2回)に分けてご紹介します。
第一回目は、当市須玉町若神子に所在する「味噌なめ地蔵尊」と「平賀源心の墓」
まずは「味噌なめ地蔵尊」


このお地蔵様は、正覚寺の近くにあり、武田信玄が川中島の合戦の時にその地にあったものを運んだものと伝えられています。
お地蔵さまの体に縄をまきつけてひきずって来たところ、正覚寺の前までくると動かなくなってしまい、お地蔵様のおぼしめしに違いないと今の場所に安置されたとの言い伝えがあります。
「放光(ほうこう)地蔵」の名もあるお地蔵様の背中にあるいくつもの筋は縄の跡で、川中島からの道中でついたものとされています。
また、自分の体の病んでいる部分と同じ部分に味噌を塗って祈ると治ると伝えられ、小さなお堂の中に鎮座するお地蔵さまの体のあちこちには今も新しい味噌が絶えません。

お次は、「平賀源心の墓」(首塚)

味噌なめ地蔵から徒歩で5分程度に位置し、民家の敷地のような場所にひっそりと佇んでいます。



平賀源心は、武田晴信(信玄)が十六才の初陣のおり討取った信州海ノ口の城主で、勝利の証として源心の亡骸を途中まで運んで来たが、あまりに体が大きくて重いので、その首を打ち落として持ち帰り、この地に祀ったと伝えられています。
なお、胴体は長野県南佐久郡南牧村の平沢峠に「平賀源心の胴塚」として祀られています。
見事初陣を勝利で飾った名将武田信玄の第一歩はここから始まりました。

概説板が劣化していたので文字起こししてみました。
>平賀源心と上木戸
武田信玄の時代、若神子には、陣所がおかれ信州方面へ出陣のおり、陣立てが行われていた。
江戸時代には宿場として栄えた。宿場の南と北には東西に石塁が築かれていて上木戸は「上の棒道」と呼ばれる軍道の起点となっていた。
上木戸を出たところに平賀源心の墓がある。
源心は信玄が十六才の初陣のおり討取った信州海の口城主で、父信虎もおとせなかった城をわずかな兵で奇襲して勝利をおさめたと伝えられている。
源心の存在については、諸説があり研究がすすめられている。<
明日は、お隣韮崎市内にある「願成寺」と「武田八幡宮」そして「為朝神社」をご紹介します。
今回は、武田家に所縁のある名所を二日(2回)に分けてご紹介します。
第一回目は、当市須玉町若神子に所在する「味噌なめ地蔵尊」と「平賀源心の墓」
まずは「味噌なめ地蔵尊」


このお地蔵様は、正覚寺の近くにあり、武田信玄が川中島の合戦の時にその地にあったものを運んだものと伝えられています。
お地蔵さまの体に縄をまきつけてひきずって来たところ、正覚寺の前までくると動かなくなってしまい、お地蔵様のおぼしめしに違いないと今の場所に安置されたとの言い伝えがあります。
「放光(ほうこう)地蔵」の名もあるお地蔵様の背中にあるいくつもの筋は縄の跡で、川中島からの道中でついたものとされています。
また、自分の体の病んでいる部分と同じ部分に味噌を塗って祈ると治ると伝えられ、小さなお堂の中に鎮座するお地蔵さまの体のあちこちには今も新しい味噌が絶えません。

お次は、「平賀源心の墓」(首塚)

味噌なめ地蔵から徒歩で5分程度に位置し、民家の敷地のような場所にひっそりと佇んでいます。



平賀源心は、武田晴信(信玄)が十六才の初陣のおり討取った信州海ノ口の城主で、勝利の証として源心の亡骸を途中まで運んで来たが、あまりに体が大きくて重いので、その首を打ち落として持ち帰り、この地に祀ったと伝えられています。
なお、胴体は長野県南佐久郡南牧村の平沢峠に「平賀源心の胴塚」として祀られています。
見事初陣を勝利で飾った名将武田信玄の第一歩はここから始まりました。

概説板が劣化していたので文字起こししてみました。
>平賀源心と上木戸
武田信玄の時代、若神子には、陣所がおかれ信州方面へ出陣のおり、陣立てが行われていた。
江戸時代には宿場として栄えた。宿場の南と北には東西に石塁が築かれていて上木戸は「上の棒道」と呼ばれる軍道の起点となっていた。
上木戸を出たところに平賀源心の墓がある。
源心は信玄が十六才の初陣のおり討取った信州海の口城主で、父信虎もおとせなかった城をわずかな兵で奇襲して勝利をおさめたと伝えられている。
源心の存在については、諸説があり研究がすすめられている。<
明日は、お隣韮崎市内にある「願成寺」と「武田八幡宮」そして「為朝神社」をご紹介します。

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