
今回は、北杜市須玉町津金地区の高根町(浅川地区)との境となる峠、
海抜1,000mほどのところにひっそりと佇む古刹『津金山海岸寺』のご紹介です。
こちらが山門。

ここから更に奥へと道を進むと寺まで続く階段の参道があるのですが、
今回は車でショートカット
境内入口の駐車場に車を止めて、ここから徒歩です。



順路に従って歩いていきます。
杉の巨木が生い茂る山の中に阿吽閣と書かれた仁王門が現れました。


阿形(左)と吽形(右)の仁王像が立っています。


仁王門をくぐるとその先には鐘楼堂。


中には海岸寺の由来が書かれています。

(以下、転載)
「今より約1,260年前(元正天皇の養老元年=西暦717年)行基菩薩が庵を構えられたのが海岸寺のはじまりといわれる。行基菩薩は、土木工事や農業の技術を伝えるとともに、千手観音菩薩の像を彫り海岸寺に祀った。
天平9年(737年)には、聖武天皇より「光明殿」の勅額を賜った。
また、寛治年間(1087〜1094年)新羅三郎義光が甲斐の国主としてこの国を支配するに当たり、京より玄観律師を海岸寺に迎えて聞法の師として仰ぎ、深く帰依して鎮守国家の大道場とした。義光の子義清も父の志をついで多くの寺領を奉納し供華を怠らなかった。
600年ほど前の応安年間(1,368〜1,375年)大義詮和尚の時に鎌倉・建長寺より石室善玖和尚(勅賜直指見性禅師=本朝高僧伝巻三十二詳記)を招いて、律宗を臨済宗に改め、海岸寺の開祖とした。
天承10年(1582年)織田が甲斐に侵攻の際寺の堂塔ことごとく焼き払われたが、同11年には、徳川家康が寺領を寄進し再興を命じた。慶長8年(1603年)には、さらに寺領を寄進し法令四条を下して天下安寧の祈願所と定められた。万治4年(1661年)山火事により堂宇全焼。
寛文6年(1666年)中興の祖、即應宗智和尚が海岸寺山主として堂宇を再建し現在に至っている。」



ここの見どころは、境内にある『百番観世音石仏』、通称『百体観音』と呼ばれています。



西国三十三所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所を併せて日本百観音と言われ、
日本を代表する100の観音巡礼とされています。
近畿、関東、秩父の各霊場を実際に回るとなると、相当な距離と時間がかかりますが、
この境内だけで踏破した気分になります。
これら石仏の作者は長野県高遠の出身で江戸時代後期の名工であった守屋貞治。
貞治の生涯の全作品のうちの約3分の1にあたり彼が50歳をすぎた頃に8年を費やして彫ったと伝えられています。



いかがでしょう? 座像、立像、様々な観音像がありますが、
各観音霊場のごとに配置された百体もの石仏は見事です。

千手観音、馬頭観世音、如意輪観世音



十一面観世音、聖観音


奥へと進んでいくと、更に階段が・・・階段を上る脇にも石仏があります。


見えてきました。
もうひとつの見どころである観音堂(大悲閣)です。



慶長8年(1603)建立、入母屋作りで妻入り茅葺の建物です。現在の建物は江戸時代の1810年に再建築されました。
長野県諏訪出身の名工立川和四郎富昌らによって1845年着工、約20年の歳月を費やして竣工をみた立川流を代表する建物です。
その特色は細部が優れた彫刻によって満たされ、且つ全体的に均衡のとれたデザインにあります。日本の木彫史をかざる江戸時代の代表的な彫物の一つとしても貴重なものであります。



そして、身舎正面の中間を飾る『粟(あわ)とウズラ』の彫刻は、富昌の芸術的才能をあますところなく発揮した名作です。(写真中央、赤枠)
この観音堂は、百番観世音石仏と共に町の重要文化財に指定されています。



境内の一角にあるのが総檜作りの『一滴水 和平山房』
ここには瞑想舞台があります。



周囲の静寂とともに心も落ち着く場所です。



[補足]
行基菩薩が彫ったといわれる2体の『千手千眼観世音』(木造千手観音立像)があるのですが、うち1体はこの海岸寺に、もう1体は長野県の海岸寺に奉られました。
重要文化財(国指定)となっているこの木造千手観音立像は、残念ながら昭和6年に盗難に遭い、現在はその姿を見ることができません。
以下の写真は、長野県の海岸寺のものです。※松本市文化財サイトより

ここだけの話し、訪れるならアジサイの咲くこの季節と紅葉が楽しめる秋がお勧めです。
今回の撮影日は、6月14日でしたが、アジサイはまだ青々していました。
今週末くらいが良さそうです。



夏でも涼しさを感じる山の中。四季折々の風情が楽しめます。
観光バスなど大勢で見学する場所ではありませんが、
おひとりで、お友達やご家族で、是非訪れてみてはいかがでしょう。
いにしえを偲び、穏やかなひとときをご堪能ください。
[地図]